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                                日本煙草の歴史
水府煙草の起源

昭和18年発行 郷土読本より

(3)水府煙草

 煙草が初めて太田地方に作られたのは慶長年間からと言い伝えている。しかし、それ以来長い間は、耕作法も幼稚で品質は粗悪なものであった。その後、天保二年たまたま多賀郡川尻濱に沖縄人が漂着したことがある。彼等の喫(の)んでいた煙草は味も香りもたいそう良いものであったので、産地を訪ねたら、薩摩の国分と判った。間もなく、薩摩の役人がその沖縄人を引き取りに来たので、水戸藩では国分の煙草を送って貰いたいと頼んだ。まもなく煙草の種が届けられた。それで水戸藩では之を町屋の和田治兵衛に与えて耕作させた。

 治兵衛は非常に熱心な農民であった。その頃、煙草の葉を乾かすのに、聯干(れんぼ)しといって、一枚一枚を幹から取って縄にはさんで日光で乾かした。しかしそれは非常に手数がかかり、又雨天つづきの時などは品質が劣って困るのである。治兵衛は或雨の多い年に何か他に適当な方法はないかと色々工夫した末、幹ごと刈り取って屋根裏につるしてみた。ところが数十日後には立派に乾燥して、今迄よりは、色も香りも遥かに良いものが出来た。即ち今行われている幹干の方法を発見したのである。治兵衛は、薩摩の国分の種を丁寧に栽培して幹干にしたら、少しも国分の煙草に劣らなかった。治兵衛は大いに喜んで、之を藩主に献上しておほめにあずかった。その後益々。研究し、その種を地方に分け、大いに奨励したのである。これが今の水府煙草の起源である。

 今では本群の外に多賀・那珂郡の一部にも作られるようになった。その産額は水戸地方専売局太田出張所管内でも毎年百萬円以上に上る重要な産物となっている。

 水府煙草は鹿児島の国分煙草と共に、本邦煙草の双璧と称せられ、香味佳良であるから、各種の煙草に香味料としてまぜられる。その葉は肩が怒っているから一名「肩怒」と言われる。

 この様に水府煙草は優良であるから、栄光にも御料煙草に選ばれている。御料煙草は明治四十年から煙草の名産地として知られている。その耕作者は栽培乾燥調理に細心の注意を払い、丹精して作った葉煙草中より優良品を選んで納付する。明治以来三十年間もこの栄光に浴することは我が郷土の誇りである。

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